秦始皇帝三十三年(紀元前214年)嶺南(今の広東省、広西省、江西省、湖南省の一部)が統一され、南海郡、桂林郡、象郡の3郡を新設した。秦の末年、趙佗という南海郡の県令が兵を挙げ、南海郡、桂林郡、象郡を攻め、領地を併合し、南越国を打ち立てた。順徳は南越国の一部になった。
紀元前111年、南越国が漢の王朝に平定されて、南海、郁林………などの九郡を置いた、大良は南海郡に属していた。
東漢建安十五年(紀元201年)、≪後漢書・郡国誌≫の記載によって、順徳は南海郡番禺県の轄地であり、三国、両晋から南北朝(紀元220年~581年)まで番禺県の一部だった。。
隋開皇十年(紀元596年) 番禺が南海県と番禺県に分けられて、大良は南海県の轄地であり、広州府に管轄されていた。
明朝の英宗正統十四年(紀元1449年)、南海県冲鶴番村という地方の農民“黄蕭養”が暴動を起こしたが、最後に鎮圧された。
明朝の景泰三年(紀元1452年)、南海県から東涌、馬宁、鼎安、西淋4地方、新会県から白藤1地方を区切り出して、この5地方をまとめ、順徳県を新設した、都心は大良と称した。
順徳県になって、明朝(1368年~1683年)、清朝(1636年~1912年)の間に、広州府に直属していた。
1920年、順徳は国民党政権下の広東省政府と中区綏靖委員公署、第一行政督査教導員公署に直属していた。
1949年10月28日、中国人民解放軍が順徳に進駐し、10月30日、容良(容桂と大良)軍事管制委員会を設立した。
1951年3月20日、順徳県人民政府が成立したが、珠江行署に直属していた。
1955年、順徳人民委員会が成立したが、粤中行書に直属していた
1958年、順徳県と番禺県が合併し、番順県と改名した、佛山専区に直属していた。
1959年6月、番順県が順徳県と番禺県に分けられて、順徳県は佛山専区に直属していた。
1992年3月26日、県を徹して、順徳市となった。
2003年1月8日、市を徹して、順徳区となった。
順徳の面積が806平方キロメートル、戸籍人口数が112.19万人、外来人口数が66.5万人。香港、マカオ、台湾、及び海外に移籍した人口数が40万人、“華僑の郷”として有名になった。
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